その時。音楽家の身に何が起こったのか。

音楽を創る事で、音楽家の身に何が巻き起こっているのかを綴るブログ

炎/シンエヴァ/庵野秀明

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ニッチ好きな皆様こんばんわ!
ニッチ無名音楽家の高宮です。

先日『劇場版シンエヴァンゲリオン:II』を観ました。
観終わってすぐに思いました。「シンエヴァについて誰かと語りたくない」って。この

『語りたくない』

って感覚について書いてみようと思います。ネタバレはないのでご安心を。



3月、立川の映画館。
studio b 中央寄りのシート、腰をおろす。キャンドルに似せた薄明かりがフッと空間に浮かび、しばらくして唐突に真っ暗闇の世界に突き落とされる。
おめでとう。現実はここで終わりました。そう教えてくれるような快感。この暗闇がたまらない。
あぁ遂にこの時が来たんだ。
新世紀エヴァンゲリオン完結作、本編開始。
タイトルが映し出される。
その瞬間、どうしたというのか胸の奥がぎゅうっと締め付けられ涙が溢れてきた。
泣くようなシーンでもないのに何で泣いてるのか、
自分の感情がまるでわからない・・・・・・

エヴァは確か、私が中2とか中3の時部活から帰ってふとテレビに映ってたのを見たのがきっかけで、当時は「また何かロボットアニメ始まったのか」と流してそれっきり、リアルタイムではちゃんと見ないまま放送は終了した。
バンドを組んでいた同級生が映画や漫画好きで、彼のMONSTER、ザ・ワールドイズマイン、青い春等の熱い語りを聞く中にエヴァの話もあった。
興味が沸きそれからTSUTAYAで借りてきて、初めてちゃんと見る。
見始めた時から今回の完結作を観る直前まで、ずーーっと感想は同じ。
「めっちゃ何かありそうだけどマジ意味不明。だけど好き」
共感出来ないしマニアックだし複雑で、「どんな話?」って聞かれてもうまく説明できる自信がない。
現代の世界から遥か彼方かけ離れた設定と視聴者を何億光年か置き去りにする怒涛の展開に、個人的には全く登場人物に感情移入など出来ない。
でもなんかわからんけど好き。
で、見ちゃう。

2012年。
前作ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qを観終わり完結となる次作への期待が膨らむ中、公開が先行き不明になった事を知る。
そレから3年が経過し、シン・ゴジラの公開を知る。

ゴジラ? いやいやエヴァどこいった?」

ゴジラ映画はちっちゃい頃に見ていて、ハリウッド的godzillaなどの公開広告はたまに目にしたが「よくある感じ」に見る気がせずスルーしていった。
だから、新しいゴジラ映画がやると聞いても興味が沸かなかった。でもエヴァの監督が撮ったと聞いて、見にいってみるかと映画館に足を運んだ。
シンプルに面白い!
至る所に散りばめられるエヴァオマージュにワクワクしっぱなし。完結作のシンエヴァへの期待を更に膨れ上がらせ、こちとらパンク寸前ですけども状態。

「てか何でエヴァじゃなくゴジラなんだ!」

その答えは容易くも庵野監督のコメントに書いてあった。
www.shin-godzilla.jp
壊れ、鬱になり、一年以上仕事場に行く事が出来ず、周りの支えがあってそこから一年心のリハビリをして、2年かかってようやく仕事場に戻れた事などをここで初めて知った。
シン・ゴジラを創ったのは、物理的にも精神的にも死ぬか生きるかの瀬戸際での生存本能。
・・・唖然とした。
そこまで魂と肉体をすり減らしてエヴァ作品を創っていたなんて。

ここで初めて庵野監督の存在に目が行き、ある時TVの庵野監督密着ドキュメントを見た。
暗い。ボソボソ喋ってる。何日間も家に帰らずスタジオにこもり作品に向き合い続け、食事や睡眠もろくに取らない。肉や魚を食べないから臭くならなくて、風呂に入ってない事に気付かれない。たまに気付かれて靴下くらい変えたらどうだと怒られる。
何だこの人は。異常、常軌を逸している。天才で破綻してて面倒臭くて取っつきづらい。
まさにアーティスト。それが庵野監督に抱いたイメージだった。
宮崎駿の元で働いてた庵野監督を、宮崎駿は「庵野は血を流しながら映画を創っている」と言っていた。
作品を創る苦しみを。自分を痛めつけてまで新しく素晴らしいものを生み出そうとする執念を。私を含めた一体どれくらいの人間が共感できるだろう。
きっとそれは0だ。
一人もいやしない。こんなむちゃくちゃに共感なんか出来るわけがない。共感性なんかハナから考えてない。
人生のうちの何十年という長い時間をエヴァと関わってきた、主要キャラクターの声優陣が最後の声入れに臨むシーン。
皆ブースの中で泣いていた。

公開延期に次ぐ延期でシンエヴァを観れたのは、前作エヴァqから9年経った2021年。
待ち続ける間、知らない所で自分の中に何かが蓄積し続けてたんだと思う。
タイトルで泣いたと書いたが、実は観終わるまでに何度も泣いている。
なんでこんな共感性のかけらもないものを学生時代から観続け、嗜好も考え方も生活も変わり良い大人になった今になっても私は惹きつけられ、挙げ句の果て泣いてるんだろうか。
創造する苦しみ・執念を映画のコメントやTVのドキュメントで見て知って、自身の音楽を制作する思いとリンクしたからかもしれないし、何かノスタルジーや人との付き合い方を見て切なくなったからかもしれない。
でも多分、私は庵野監督の作品への思いに泣かされてるんだと思う。
何て言ったら良いのかわからないが、シンエヴァを映すスクリーンのどこかに確実に庵野秀明がいる。
観終えて思った「誰かと語りたくない」とは

言葉にする事がデメリットになる。

そう作品に思わされたから。
小さい子が両腕に大事そうに宝物を抱えるような、この感動は自分だけのものにしたい。そんな感覚。

共感出来る事が素晴らしいなんて、マヤカシでしかない。
今まで生きてきて感動するくらい胸を打った何かって、きっと共感性を考えて創られていなかった。
芸術を創りだす時に共感性なんて存在しない。だって世の中に無い物を創造する事は、どこにも判断基準がないから自分の価値基準でしか生まれない。そこに共感という外にある価値基準を置いて作り出そうもんなら、作品は途端に鼻をつくような匂いがして腐る。
だから芸術の創り手にとって他人や周りなんてどうだって良いのだ。
ただ面白い、素晴らしい作品が創りたい。それだけ。
そうして完成した作品は、ある人にはゴミで、ある人には涙を流す程美しいモノで。創った人間の寿命を超えて100年後も200年後も世界のどこかで存在し続けたりする。
共感性を基に作った作品は、何となく良さそうに見えて、ゴミとも言われず感動もされない。一時取り沙汰されて何年後かに忘れられて消える。
作品を目の当たりにした時、その価値は自分で決めれば良い。
周りの目や空気なんて信じても良い事ない。皆それぞれバカになって色々やろう。そんな世界の方が今よりよっぽど楽しいんじゃないか。

共感できないものはなんて素晴らしいんだろう。また私は泣いてしまった。