その時。音楽家の身に何が起こったのか。

音楽を創る事で、音楽家の身に何が巻き起こっているのかを綴るブログ

さよならを解体してみる

f:id:TakuTakamiya:20210430181447j:plainニッチな皆さんこんばんわ!
ニッチ音楽家高宮です。
春は別れの季節とか言いますが、ふと

さよなら

って一体なんだ?
と気になってしまって、今回の文章を綴っていこうと思うのです。

『さよなら』
生きてるうちに何度口走るんだろうワード第5位以内には入ってくる、Good byeや再見とかとは全く違う所にある日本の言葉。
さよならって言う時は、辛い、悲しい、寂しい、嬉しい、スッキリした、なんて感情をイメージする。ただの挨拶って面もあるけど。
だけど、さよならってのは
「さようなら=左様ならば、然様ならば、それならば」
ただただ状況を指していて、感情が入って無い。

あなたとの時間はここで区切ります

というのが本来の意味らしい。
こう見ると何だか感情がなくて冷たい言葉だなと思うかも知れない。
さよならが表してるのは、始末する事。
初め〜終わりを見る。つまり終わりを自分で決める事。
この日本に根付いた始末の美学って、私は潔よくて美しいなって感じる所があります。

昔は「然様ならば、ごきげんよう。」等の二語の流れで使っていたのが、時代を経て「さよなら」が独立したとどこかで読んだ。
それならばという接続詞→さよならという別れを意味する名詞
現代において言葉の意味が変化してきたのって面白い。

何かが終わる。別れる。そんな時に口許から発せられるさよなら。
さよならが別れを指すとしたら、家族や恋人やペット等の近しい関係の存在とのさよならはどうだろう。

別れる、さよならする際には精神的苦痛をきたす事がある。
その対象が近ければ近い存在なほど、痛みは比例して大きくなるように思える。
精神的苦痛が、物理的に胸の圧迫感や吐き気などの症状を引き起こしたりするのは何でなんだろう?

ある研究では、別れた時に感じる痛みは身体的痛みと同じように知覚され、物理的な痛みの感覚を受け取る脳の領域が反応しなくても関連付けられているシステム及び体が痛みに反応する方法を決定するシステムが、「何か不都合が起こった!」と認識し、脳がコルチゾールエピネフリンなどのストレスホルモンを放出し、そのストレスホルモンの放出をもたらす体の機能をコントロールしようとする事で、次々と体に大きな影響を与え症状として現れているという事が解ったらしい。
別の研究では、脳の火傷をした時に活発になる領域が火傷したと錯覚し活発になっているのが解ったらしい。
つまり別れたって事象は、精神に苦痛をきたし肉体も大きく傷つけるという事が見て取れたと言う事か。
ただ、人間の体は現在もまだまだ解らない事だらけで「別れると精神が傷ついて脳が火傷だと勘違いして圧迫感や吐き気を引き起こすんだ。」じゃない。
そういうエビデンスがいくつか出ただけで、不確定要素は山ほどあるし人間の体について少しずつこういう事が解ってきた。というくらいの話。
人間の体は不思議に溢れている。

私にも身近な存在とのさよならがあった。それはこの世から見送る時だった。
刻々とその時が近づいてくる、ある種の覚悟が出来てからのさよならだった。
この世を去るその時まで、家族と共に居たり周りの誰かと関係したりして、肉体的な辛さはあったと思うが幸せを感じて逝ったようにみえた。
死ぬ事=悪い事・悲しい事では決してない。
自分が何年の何月何曜日の何時何分に死ぬのかなんて誰だって解らない。だからこの世からさよならをする時に幸せを感じて逝ったならそれは良い事なのではないかって私は思う。
見送る時、ある種の覚悟は私に平静を保たたせていた。
でもその覚悟とは別の所にさよならは影響した。
何だろう。いざ躰を目の前にして、これまでは動いてる事が当たり前だったから「動く」という事を意識もしなかったけど「あ、もう動かないんだ」って脳が認識した途端、
私に凄まじい量の電気が走ってしまった。
胸は圧迫され涙が出現した。
体に何か炎症の類の症状が出る事はなかったが、よく解らない電気にやられて私は私をコントロール出来やしなかった。

さよならする。とんでもないエネルギーだ・・・。

しかし、脳は体内に電気信号を出して色々な事をコントロールしているが、もしもたった今別れたって衝撃があった時に体の中を走る電力を測定したとしたら、一体何ワットなのだろうか?
悲しみをちゃんと識りたい。味わいたい。って本能や情緒は必要だし担保されるべきだけど、身体を壊す程の過電力は要らないんじゃないだろうか?
その過電力を再生エネルギーとして、物理的に電力が足りない所に回した方が誰か救われる人がいるんじゃないか?
さよならを再利用する
なんて。
馬鹿げた話、ぽかり浮かんだり。

さて、物について考えると毎日ティッシュやらペットボトルやら野菜の切り屑やら色々と捨てている。でも、これらにさよならを意識した事がない。
物質が満ち足りているのが通常で、日本中どこでもいつでも物を買えるから正直有り難みを感じた事が無い・・・。贅沢な事だが。
物とさよならするという意識が働くのは、まだ使いたいんだけど、落として割れてしまったり機能しなくなって手放さなくてはいけないと泣く泣く判断した場合じゃないか。
あとは過去の思い出を忘れる為とか。
昔の日本は物質やインフラが足りてなかったので、物を捨てない文化だったって小耳に挟んだ。
そこで目に止まったのが

「金継ぎ」

日本に昔から受け継がれる技術で、茶碗や皿などの陶磁器の割れた部分を漆で埋めたりくっつけたりして、その上から金粉や銀粉で飾り付けて、捨てずに直す事で元の器の価値を上げる。
品を見ると、金色や銀色の不規則な線がうまく彩りになって美しい。

くっ付けるだけなら瞬間接着剤で良いだろ。
そらそうだ。けど、ただ美しいんだなコレ。そして結構完成まで手間と時間がかかる。
使っていくうちに時間と共に色が変わっていったりして複雑なテクスチャーが出る。
んーこれまたニッチ心をこちょりこちょりと擽ってくるじゃないか。やってみたいじゃないか。

大事な物とさよならしたくない。何とか生かしたい。

そんな思いから自然と発生した金継ぎという、物の「命を繋ぎ止める術」ってすごく素敵で興味深い。



ーーー終わりにこんな事を書いてみる。

私が昔読んで影響を受けた漫画の一つに"MONSTER"がある。
ヨハンという人物が、自分の事を知ってる人を全員殺してこの世界で誰も自分の事を知らない状態。完全なる自殺を目論む。という衝撃的で恐ろしいストーリー。

そんな恐ろしい事って現実で実現可能なのかな?って思う。
なら、完全なる推測と妄想とあまり当てにならない記憶で自分に置き換えて強引に仮定してみる。
今まで生きてきて高宮拓の事を知ってる人って、
保育園・幼稚園100人、小学校500人、中学校200人、高校100人(小中高一貫)、大学200人、社会に出てから700人
つまり2000人くらいはいるのかもって事か・・・。
この中で、私の存在を忘れた人、私が存在を忘れた人を加味して、、、100〜1000人はいるかな。
差し引いた所で1000人もいる。
1000人を世界各地探して誰にも見られずに殺して完全犯罪を完遂するなんて、到底出来るとは思えない。

ヨハンのような人間が現代にいたとして完全なる自殺を成し遂げられるケースがあるとするなら、誰とも関係せずにテクノロジーを使って何百年と生き続け、自分を知ってる人達全員の寿命が尽きて自分だけが生きてる状態。
これが現代における完全なる自殺かもしれない。

でも多分完全なる自殺は成し遂げられない。そう思う。
物理的に達成できる可能性が低そうなのと、もう一つの証明として逆説的にとある話を思い出している。

それは、大事に思っていた人を亡くしてその相手の事を「信じたくないし耐えられない。だから自分の胸の内で生かす。それなら〜さんは死んだ事にならない」と言っていた人の話。
物質としてそこに有ろうが無かろうが、どこかに存在させるのは人間次第だと思った。
誰一人とも関係しないで生きていく事が不可能な存在が人間。
人間性がある以上成し遂げられない。・・・ただ私がそう信じたいだけかもしれないが。


さよなら、あなたとの時間を区切ります

さよならしたい何か

さよならしたくない何か

そのさよならは、自分でちゃんと見つめて自分で決めていきたい。

外を見れば、春がもう終わるのでした。