その時。音楽家の身に何が起こったのか。

音楽を創る事で、音楽家の身に何が巻き起こっているのかを綴るブログ

立川談志というイカれたものとの遭遇

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多分
ZAZENBOYS×立川志らく
ロックバンドと落語家の共演とかいう聞いた事もないライブがある事を知った時から、落語との縁が生まれたんでしょう。
立川、、、なんぞ聞いたことのある。
あー!あのイカれたおっさんがやってるやつか。

...なんてな申しまして、ふと意識して彼の人物を見ようと浮かびましたる面影は
変なバンダナ デカ縁眼鏡こさえまして 方頬に手を当てて小首傾げながら唇とんがらせて毒ある舌がしゅらしゅしゅしゅ
口が悪い 素行が悪い タチが悪い 三拍子揃った
泣く子も中指立てる皆さんご存知、立川流家元 七代目立川談志

客席で居眠りしてるやつがいたから帰らせ、その客が怒って裁判まで起こして、挙句の果てに勝って。
政治家になったかと思えば、笑点おっぱじめたり
世間にゃ嫌われるがどうにも落語においては他に換えが効きません。いわゆる天才ってやつでして。これがどうにも始末の悪い。

談志や落語に触れ始めたタイミングは確か、バンド活動が破綻し音楽に一切触れられなくなっていた時期でした。

なぜ音楽から離れる事を選んだのかはこちらの記事に詳しく書いてます

note.com


精神崩壊寸前の私、無意識下で精神を潤す「水」を本能で求めていたんだと思います
落語・絵画・映画 そんな類の水中に身を埋める事で何とか息を繋いで
結果今生きている
気がしています

さて、音楽家と落語家
表現方法は違えど佇まいにぞくり
っと、少なからず影響を受けたものでございます。
私が談志に触れた頃には残念ながら他界していましたが、談志きっかけで開かれた落語の門戸を抜けると
何度も新宿の末廣亭等の寄席に足を運んだり、立川流の落語家や、談志の兄弟弟子の柳家小三治の芸を目の当たりにし落語に魅了されていく私がそこにいました。
座布団の上ちょこんと座って淡々と噺をする。噺ごとに照明が変わるでもなしに一定の明るさで淡々と噺だけで引き込む 笑わせる。
聴く側の想像力に掛けた芸とでも申しましょうか、噺をしているだけの事ですがこちらは聞いていると物語が目の前に浮かんで実に面白い。
演出は全てはなす本人次第。だから同じ古典でも誰がはなすのかで景色が変わっていくのです。

すごい芸を見た時は落語家の周りに宇宙が広がってるように思えた事もあった。
あの視覚的情報の少ない舞台で展開する世界の情報量の多さには舌を巻く。

談志は「落語とは人間の業の肯定」と捉えていた
人間の心の奥のドロドロしたまとまらぬモノを肯定するのが落語
業とは好奇心の事
好奇心は、世間で良いとされるものとは限らない。
一所懸命に人を楽にするものを作ってやろうとするのも
どうやって人を殺そうかとするのも
どちらも業、好奇心。曰く落語はそれひっくるめて認めるものだと。

なんだ?人殺しを認めて良いってのか!
んな事ぁ言ってない。良いとか悪いとかひとまずそこらに置いといて聞いとくれ。ってはなし。
そんな客がいたら談志に帰らされてるかもしらん

世間で良いとされるものを常識と言い
常識は人が他人と生きてく為に教育で是正して作ったものだ
常識の中だけで暮らそうとすると無理が生じる。不快な部分が出る。
常識という名の無理が人間社会には山程ある。

談志の言葉にすんと頷く。
無理をどうにかしちまうのが落語の魅力かもしれませんね。

個人的に談志の言葉には共感するものが多くて。その一つが

「演者と客の間には見えない境界がある。」

全くその通り。
演者は非常識/非現実の舞台に立ち、客は常識/現実の世界にいる。演者の芸で非現実の世界に引き込む。
舞台と客席なんて分かれてるんだから境界線があるなんて当然じゃん、と思われるかもしれないがそれは間違いだ。
なら舞台と客がいるフロアの間に区切りのないフロアライブならどうだ。

youtu.be
客がいるフロアで演奏する事は境界線がなくなったように思える。
しかし、見えない境界線がそこには敷かれている。演者と客 肩が触れ合う程の距離にいようが、全く別の次元にいる。
言うなれば立体の世界で生きている3次元の客と、4次元で生きる演者。(4つ目の軸を時間と捉えるとする)
目の前にいるように見えて、全く同じ時間軸にいない。
演奏をやってる時は時間が止まったり逆走したりしている。

昔、何度となく出演し大変世話になった新宿のライブハウスの当時の店長がこんな話をしてくれた。
彼はギタリストでバンドをやっているのだが、
自身の所属事務所の社長の結婚披露宴をライブハウスで行った時、新郎新婦に縁のあるバンド5組でライブをした。
AとBのバンドは、結婚披露宴に合わせたフワッとした演奏をした。CとDのバンドは、客を煽りまくる自分たちのSHOWをした。
自身のバンドは、社長が元メンバーだった為ギターを弾いてもらった。
そして何年か経ち

ABのバンド→解散
CDのバンド→至る所で活躍
自身のバンド→音作りで難航

現実はそういう流れになった。
という話。

話の意味を説明しなかったが、結果としてある事実は常識に迎合した演者は生きていけないという事を暗示していたのかもしれない。
演者と客の境界を見誤ってはいけない。これを書いていて再確認する。

談志をあまり知らない時分は何だかイカれた人だと思っていた。
けど今は色々と自分なりに触れて来た実績を持って言える。
ありゃイかれた人だ。

そのイカれ具合を表す指標として、談志が大切にしていたものに

イリュージョン

がある。
落語なのにマジックみたいなもんでもするのか。
イリュージョンとは何か。
「談志最後の落語論」に実例が載っているので引用させて頂く。
『寝床』という古典落語の談志演出。その噺の中のやりとり

「今日は寝床をやるから、ひとつ集めておきな」
「はい、判りました」
「あー、何かい、大家は来るかい?」
「来ません」
「来ねえのか。自衛隊はどうした」
「演習があると言って来られないそうですよ」
「平家はどうした」
「平家は、今ね、源氏と一大決戦を......」
新撰組はどうした」
新撰組も今、落ち目でね」
「しょうがない野郎だね。幼稚園の生徒はどうした」
「帰りました」

うん。わけがわかりません。
元々の噺の筋は、長屋の大家が義太夫が好きで定期的に住人や使用人に披露していたのだがその下手さに皆聞きたがらなかった。
大家がいつものごとく皆を集めようとするが、住人は仮病を使ったり多忙と偽って誰も来ない事に。
その事実を知った大家が、住人は全員長屋から退去、使用人は全員解雇だと怒り不貞寝。
それはやばいと住人達。何とか機嫌を取ろうとおだてて義太夫をやってもらう運びになるのだが...というもの。

筋を知った上で改めて談志の寝床の一節を見ると、そのわけわからんさが身に滲みたり滲みなかったりする。
まず大家が話してるはずなのに、「大家は来るかい?」って話していて
「いやいやお前誰やねん」ってなる。
更に長屋の住人と思われるのが、自衛隊・平家・新撰組・幼稚園の生徒。
「いやいや時代いつやねん」「ちょいちょいちょいその長屋どんなメンツ構成やねん」ってならざるを得ない。

これね、談志自身もわけわからんままに話してるんだと思います。
イリュージョンとは、自分で何だか判断つかないが何か感じるものと書いていましたし。
確かにわけわからんけど、
変幻自在な言葉のチョイスと、わけわからんものをわけわからんものとして素直にそのまま捉え、ツッコミを入れず落語を成り立たせている所は凄い。

でもここで私、

あーイリュージョンってARTの事か

とピンと来て妙に腑に落ちてしまったのです。

ARTは人が考えうる[もの]や[仕組み]や[概念]の外側のなにかを表現する行為で、作者の想像や意図とは別の所で出来上がったりする。
人は今まで見たことのないもの、感じたことのないものに心動かされる。その対象がARTだと考えます。音楽でも落語でも絵画でも映画でも。
つまり、自分の想像の範疇のものをやったって先が知れてる。だから自分の頭で理解出来なくても自分の内で何か感じるものを世に出す事で、芸を輝かせて行ったんじゃないだろか。
「芸は粋と不快しかない。」
そう言い放つ談志はARTをやっていた。
それが私の見解です。

私がどん底に堕ちた時に救ってくれた落語や絵画や映画は正しくARTであり、私がARTをやる人間だと気づかせました。
そのせいかイリュージョンに共感してしまう私もイカれているのでしょうか...ふふふ。

志を談る。そんな名の落語家に見る、演者としての姿勢や芸というものの深さ恐ろしさ。
それを肥やしに私は今夜も音楽に身を埋める事にします。