その時。音楽家の身に何が起こったのか。

音楽を創る事で、音楽家の身に何が巻き起こっているのかを綴るブログ

ディスコミュニケーション礼讃!!!

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ニッチな皆さんこんばんは!
ニッチ音楽家高宮です。

あのー皆さん、周りと心地よくコミュニケーション取れてますか?

もしこれを読んでくれている方でどなたか医者の方がいたら、私を診てくれませんか。
多分私、『人と話が通じない病』に冒されてるんです。

最近何か全然話が通じなくて。(...いや最近に始まった事じゃないけど。)
頭にある事をどうにか伝えようとすると

こいつ何言ってんだ的無言鉄バリケード▶︎▶︎▶︎呆れフェイス▶︎▶︎▶︎眉間に皺

の地獄コンボが、私の土手っ腹にクリティカルヒッツ!
ひどい時なんか、その後に凍てつく溜め息がひゅ〜るり〜とこちらに流れてきて。

痛タタタタタタタぁっ!

と心打ち砕かれてます。


だから近頃は本当に伝えたいと思った人以外は、なるべく慎んで話すようにしています。


私「これがこうであーなるからそうなるじゃん? だからこういう事なんだよ。」
X「......うん。陰ながら応援してるね。」
私「あ...。ありがとう。」

そんな類の会話の後、疎遠になってしまう事も何度かありました。

相手に合わせるのが会話の正解だってわかっているんですが、仲良いだろうからディープな話も共有出来るだろうなんて勘違いして。
相手をよく見てなかった結果なのかもなと反省一頻り。

でも反面、音楽やARTや精神や日本文化やワクワクするアイデアとかについて誰かと話したくて堪らないのも事実で。
なんか胸の内を話せたり相手の内心を聞けたりって、すごくエモくて嬉しいじゃないですか。
あなたは周りにそういう深い話出来る人っていますか?

深い話出来る仲間が欲しいです。


というか、そもそも

言葉で通じ合うなんて限界がありませんか?

なんかもうテレパシーで会話した方がよっぽど健全な気してます。

喜怒哀楽なんて感情も心が震えた感動も、全てを言葉で表せる程単純な構造してないじゃないですか。
「今のこの気持ちは言葉に表せない」
「言葉に出来ないくらい〜だ」
なんて事、一回くらいは心当たりあるんじゃないでしょうか。

言葉なんてそんなもんです。
私たちが思ってるより全然不完璧で弱い。

言えない事も言わない事も言葉の奥にあるものも、私達にはとても大事なはずで
そのぼんやりしたよく分からないものを、見えてる言葉以上に素直に認める心が
日常の中で枯れていく気配を感じて
近頃そのヤバさを警戒しています。


おはよう⇔おはよう
こんにちは⇔こんにちは
元気にしてますか⇔おかげさまで

同じ言語で会話出来るのは素晴らしい事だけど、

おはよう⇔✸◆□〓♯♤

こんにちは⇔ⓙ↙☞⇉≫∂∀¶

元気にしてますか⇔℃》╋∇⊿∞

だってコミュニケーションは出来るはずで
言葉が通じないんだからコミュニケーション取れるわけないでしょって、当たり前のように切り捨てるなよ。
って思います。

例えば
人⇔人より

人⇔動物
人⇔木
とかの方がよっぽどコミュニケーション出来るんじゃないでしょうか?

身近にいて生活を共にする動物に、お腹が減ってそうだったらゴハンあげたり散歩したり可愛がる。
家にある観葉植物だって水が欲しいタイミングがわかるし、間違えば枯らしてしまうから大切にする。
そんなコミュニケーションの取り方なんて当たり前にやれる。

同じ人間だとしたら
赤ちゃんだったら言葉なんて通じないから、アバババァとかいないいないばぁとかあっぷぅぷぅとかの日本伝統芸を駆使して
親も親族も友人だって、必死にコミュニケーションを図ろうとして大事に大事に接する。
胎児なんて、外界に出てくるまで万が一でも何事も起きないように大事に大事に守られる。

でも大人になって自分と同じような姿の生命体になると、同族嫌悪か何のせいなのかイラッとしたり揉めたりして。
身近な親や子や兄弟や友達等を傷つけたり、時には殺しちゃう頭のおかしい人間もいたりして。

あとは日本以外の国の人と、例えば英語や中国語等共通言語で話してコミュニケーション取ろうと学んだら
最初は一所懸命通じ合いたいって励みますよね。

うまくコミュニケーション取れない対象の方が、どうにかして通じようと励むなんて
人間は皮肉な生物ですね。


風と世間話したら良い

波に最近気になる事聞けば良い

虫と一緒に音楽にノって踊れば良い

そう思います。

人と世間話する
人に最近気になってる事聞く
人と一緒に音楽にノって踊る

なら何一つ違和感感じないのに
接する対象が変わると、アニメの世界とかフィクション映画とか絵本とか夢の話に思える。
それって、人と人以外の物を同じように見てないからなんじゃないでしょうか。

少し前に読んだ「アニミズム時代」という本の中に、こんな様な事が書いてあって。

ボルネオの奥地に住むイバン族という部族。彼らは、毎朝モミを精米して食べる時立杵・立臼を使うのだが、米をつくたび音が響く。
ドッスンドッスンと悪い音を立てると稲の魂が逃げ、翌年の収穫が覚束なくなる。トントントンと心地良い音が響いたらモミの中の稲の魂が喜んで、人間が食べても食べても食べ尽くせない程の豊作をもたらす。

そう信じているとかいわばジンクスとかじゃなく、人と稲のコミュニケーションが当たり前に行われる事が、生活のリアルなんです。
勿論稲は言葉を発さないし、人間に対して何も主張しない。
でもイバン族の人達は、人間と稲の命を同じ価値の物として捉え共に生きている。
「人間が生きる為に摂取する食べ物」とだけで見ていない。

人間も木も波も風も虫も、そこに優先順位とか差を付けて分ける事こそが争いの原因。
そんな気がしてます。周りの物と共存しなきゃ生きていけないのに。

他を滅ぼして行き着く終着駅は、地獄の一丁目ですよ。


共通言語や共感ばかり求めないで

『相互不理解・ディスコミュニケーション

をもっとポジティブに考えたら良いんじゃないかって思うんです。最近は特に。

日本人って
昔から神社や寺に、やれ初詣だ、やれ合格祈願だ、やれ墓参りだと出向いて、カミサマホトケサマって実態の無い何かに向かって挨拶したり力を信じて頼み事したりするのを、普通の事として皆やってますよね。地方によって山岳信仰や蚕信仰なんてのもありますし。

コレ、諸外国からしたら「何か日本人って狂ってるわー」って思われてますよ。多分。
だから実は私達って、世界的に見ても「ディスコミュニケーションなんてあって当たり前でしょ〜」って
暮らしてきた民族って事なんじゃないでしょうか。

相互不理解なものとのコミュニケーションは、言葉や共感性を求めても無駄。
だって相手は人間じゃないし。人間の考えで生きてないし。
だから、相互不理解なんて当たり前と相手の存在を認めて自然体で触れていくしかない。
空気読んだり、持ち上げたり、否定したり、全部何の意味も効果もない。


だから
人間⇔人間のコミュニケーションこそ
相手は自分に似た姿形してるだけの違う生き物で、他の人間以外のものと同じ様に「相互不理解なんて当たり前」と理解して、相手を認めていきませんか。

ディスコミュニケーション礼賛!!!

そんな風に生きていった方が、この先の人生楽しいかもしれませんね