その時。音楽家の身に何が起こったのか。

音楽を創る事で、音楽家の身に何が巻き起こっているのかを綴るブログ

そうだ。坐禅行こう。

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ニッチな皆様こんばんは!
ニッチ音楽家高宮です。

「そうだ。坐禅行こう。」

この間突然思い立ちました。

いや何か、コロナ禍でこの先の人生どうなるか見通しつかないし
モヤモヤするし
坐禅は無になる事だとか聞いたから、ここらで一度無になってみたくて。

坐禅なんて家でも出来るけど、正式なものに触れてみたい!

なんとなく敷居高そうだし不安だけど、やらないよりやってみたらきっと楽しいはず
と、早速都内の坐禅会にGOして来ました!!!


さて坐禅会初回のズブ坐禅素人の私は、初心者向け作法レクチャーから受けます。
 
坐禅とはなんぞや

☆足の組み方・重心の取り方

☆目は半眼(薄目〜半分ほど開ける)にして、正面より少し視線を落とし1、2m先の一点を見つめる

☆姿勢が安定しなかったり心がモヤモヤしてる時は、棒(警策というらしい)を持って回ってくる和尚が自分の前に来た時、合掌して一礼し、肩から背中にかけてバチコン!と叩いてもらい、姿勢と心を立て直す

☆終わったら、菓子と茶を頂く茶礼がある

☆最後に礼をして終わり
 
そんな一連の説明を受ける。
全部覚えられんのかとワタワタ。
しかしすぐに時間は来て、私を含めた初心者集団は揃って坐禅堂へ。

堂に入ると、すでに坐禅を組んでる玄人達が!
き、緊張…。
恐る恐る空いてる座布団に座る。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

夕暮れの堂内
とても静かな時間が流れてる

一度鐘が鳴り
和尚が話し始める。

仏教や禅の堅苦しい話するのかな。
大体こういうパターンって話がつまんなかったりするよな…。
 
「コロナ禍で、塞ぎこんだり苦しんだりしている事等をきっかけにしてか、禅に来る人が増えております。
かれこれ何年もここに坐禅を組みに来ておる私の友人に〇〇(某有名ビジネスマン)という者がおります。
〇〇〇ムシをジェット機の燃料として使って飛ばしていたりする面白い男でして。先日雑誌の企画で彼とこの寺で対談したのですが、その時にこんな話になりまして.........…」

え。結構面白い。
先入観で決めつけてごめんなさーい!

話終え一礼

遂に坐禅が始まるみたいだ。
教わった姿勢を作り、じっとする

鐘が3度鳴り、拍子木がカンと打たれた

それをきっかけにして、一気に静寂タイム到来。




言われた通り、薄目で1m先の畳のへりをじっと見つめてみる。

しかし坐禅は無になる為に行うとか聞いてたが、実際座って何もする事がないと頭の中がうるさい。
全然無になれない。
気になる事、うまくいかない事、ムカつく奴の事、あんな事、こんな事。
浮かんで消えて忙しい。

てか無になるってどうすりゃ良いのよ?
自分を消す?
そんなんムリゲーじゃない?

…あー頭がうるさい。

そういえば「色々と考えてしまう時は、深呼吸を数をカウントしながらやると良い」とか言ってたな。
吸って吐いていち
吸って吐いてにぃ
さん、しぃ、ごお

...確かに。
数に集中すると数えなきゃいけないから他の事が隅に追いやられる。

何でか落ち着いてくるのが不思議。
禅って人間の思考を停止させようとする事なのかも。

しかし何で坐禅する時って薄目でやるんだろ?

ただやってみると
視覚が覚束なくなる代わりに、鳥のさえずりや外を歩く人の話し声がよく聞こえる。
マスク越しだけどお香や畳の匂いを感じる。

あれ。急に耳と鼻が効くようになった?

ひょとしてこれって
人って、目から入る情報を「正しいもの」と思って信じすぎるクセがあるから、
半眼(薄目)でものを見る事で視覚を少し弱めて、他の五感とバランスを保つ事で耳と鼻が効くようになったと感じてるのかな。
座って足を組む理由は、物理的に自分で自分をロックして動けなくして、この事だけに集中させようとしてるのかな。

そういえば、仏像とかって薄目のものが多いような気がする。
薄目の訳は、物事の真実を見る為とか聞いた事あるけど、
あれって視覚を弱めて五感のバランスを取る事で真実を見てるのかな。

でも
「良し!私は今日から真実を見て生きる」なんて言って薄目で歩いてたら
頭電柱にクラッシュ!車にアタック!
必至です。
そんなスリリングな毎日、私は無事に送れる気がしません。
逆に、普段どんだけ目で判断してる範囲が広いのかって気づかされますよね。

「無になるってのは、周りのものと一体化する事」
なんて誰か言ってた。

周りのものと一体化なんてどうすりゃ出来んのよ。
周りのもの?
今周りにあるものって…空気?
空気と一体化?

海やプールに入った時とかに、水と一体化してるって言われたら何となく解る。
入ると冷たいし、息出来ないし、水の中にいるって感じる。
でも「私、今空気と一体化してる」なんて感じた事無くないですか?

考えてみると、今こうしている場所が呼吸出来て無感触なだけで
水の中にいるのと環境が違うだけの事なら、いつも空気と一体化して生きてるって事なのかも。


禅は
自分と他人とか
自分と木とか
自分と動物とか
自分と風とか

自分と周りにあるもの全部まとめて

ばかでっかい円の中にある「ただの一つのもの」として見る。

全ては円の中にある「ただの一つのもの」でしかないので、優劣がない。
自分と周りにあるものは、同じ価値で共存し合っているという考えらしい。


ただ自分と他人って何か別のもので、一つだとなかなか思えないですよね。

そこでふと思ったんです。

例えば、自分が友達と話してるとして
自分と友達を同一のものだとは思えないけど
お互い東京に住んでる人間って見れば同じカテゴリーで括れる。
日本人として括れば同じだ。
地球に住んでる人間と思えば同じ。
地球に住んでる生き物と見れば同じ。
宇宙にある星の中の一つに住む生命体と見れば同じ。
視点を今自分がいる所からどんどん宇宙くらいまで広げれば、何か一つのものとして見れる。

ふーん。何気に禅って面白いじゃん。


は!!!

て、また何か考えてるやないかー!
無だろ無!
無無無無!


その後は
薄目、足固定、深呼吸カウント、体の周りに空気がある事を意識するスタイルを作り直し
ただじっとする。

しばらくすると変な事が起きた。

なにやら、畳とへりの間くらいがボヤーっとうっすら光って見えてきたのだ。

へ?

試しに目を見開くといつもの光景。
で、また薄目にしてしばらくすると…やっぱり光ってる!
俺、今何を見てるんだろう。
現実なのか現実じゃないのかよく解らない。
いよいよ頭おかしくなったかと思うも、続けてみる。

途中に一時のインターバルを入れ
20分×2セット。

後半のセットも、畳が光っている。
「これ何なんですか?」なんて自分の感覚を誰に聞ける訳でもなし、とりあえず味わう事にした。


鐘が鳴り、拍子木が打たれる
坐禅終了

何だかぼーっとしてる。
あの謎の光景が現実だろうがなかろうが、そこに何かあるように思えた事が愉しかった。

坐禅の後は、茶礼
緑茶と小さな大福を頂く。

う、うまい。

お茶の覚醒効果でスッと目が覚めた。

最後に一礼

こうして初めての坐禅会は終わった。


帰路
千代田線を待つホームで
得体の知れない心地良さに襲われていた。
「行ってみて良かったな」
近くの乗客に聞こえるか聞こえないかくらいの音量で
迂闊にもつぶやいていた。

未だコロナ禍にいる私達。

ただ座って何もしない
じっとして自分の周りの空気と一体となる。

そんな単純な行為が、何か価値がありそうな気がしています。

目に映る日常の景色にウンザリしたり疲れたら、近くの寺に坐禅を組みに行く。
そんな風に時間を使ってみるのは、いかがでしょうか?